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hatena@raf00

@raf00のはてな出張所

ネットは精神にプラスになるかマイナスになるか、あるいは「承認欲求」話に関する要求。

これと、これ。

「インターネットが個人の精神にプラスになるか、マイナスになるか」という話で、両者の見解が対立することは不可避でありつつも、お互いの立ち位置からの言葉としてはそれぞれに説得力があるように感じられます。

 

サイバメ氏が「駆け込み寺」と表現するように、コミュニケーションや承認を渇望する人間にとってインターネットがもたらしてくれるリアクションは(それが大いに罵倒を伴うものであっても!)大いに自分を救ってくれるものであるでしょうし、シロクマ先生が言及されるように根本的な不足の解消と人間的成長には(概ねのところ)寄与しない存在であるとも思います。

根本的な話で言えばシロクマ先生の言及内容が正しいことは疑う余地はありません。
インターネットで一瞬の話題を集めて悦に入るよりも、リアルの友情や信頼を獲得するために動いたほうが建設的で、豊かであることは間違いない。ただそれは膝が痛くて病院に行ったら「運動不足が原因です。運動しましょう」と言われたようなもので、「今、この痛みをなんとかしないと運動なんてできないよ!」と思ってしまうだろうこともまた事実。

一方でサイバメ氏が語る効用は間違いなくあれど、それは「膝が痛いのを誤魔化すためにモルヒネを使い続ける」ような行為でもあり。ネットが孤独を癒してくれる効果についてはraf00も体感した一人です。ただその副作用と中毒性依存性は折り紙つき。例え話ですらなく現実に依存・中毒を起こしている人は少なくありません。駆け込み寺として健全に機能すれば良いのですが、ことこの界隈から眺められるネット世界は阿片窟のようですらあります(俺も含めて)。

 

というわけで、個人的には「インターネットはあるライン以下の状態にあるときには様々な物を与えてくれ、あるラインを超えると奪うものになる」という図を改めて思い出します。ブロガーでも著名Twitterアカウントでも一定以上に育つと「ネットのコミュニケーションは有害だ」と言いがちだったりしますしね、いろんなところで浮かぶ図です。

 

さて。
この手の話、2015年11月度ブログ論争でも思うのですが、改めて「承認欲求」という言葉を便利に使いすぎじゃありませんかね皆さん。

raf00は心理学から遠くにいる学のない人間ですが、その学のないraf00であっても承認欲求の中にも数種があることは知っています。また多くのネットユーザーのネットへの関わり方は(それがブログ運営という積極的なアクションであっても)「承認欲求」ではなく「社会欲求と愛の欲求」じゃないのかとも思います。

所属欲求と承認欲求がごっちゃになっている人もいるでしょうし、それをさらにこじらせた「誇大妄想の中に引きこもった化物(tm2501)」も生まれています。
承認欲求を軸として動いているように見えて、その目的が単純に広告収入であるのなら、「豊かな人間関係・人間的成長」などは全く指摘として当てはまらないことにもなるでしょう。
尊重や賞賛を自身に集めたいブロガーもいれば、自身の存在はできるだけ無色透明にしつつアウトプットの評価だけを追い求めることで自らを承認したい人もいるでしょう。
ネットで炎上を繰り返しながらもリアルでは多くの友人に囲まれていたり、仕事で十分な承認が得られている人もいます。歴史的ベストセラーを出しながらもさらに明らかに承認欲求を求めて動いていた人も我々は観測しています。

「承認欲求」に対して各々が様々な関わり方をしています。
それに関する言及はフィールドが個人ブログなので「俺定義の“承認欲求”」となることも仕方ないでしょう。
しかしそれについて語るときに「承認欲求ガー」と様々な状態や欲求をまるっとまとめてしまってどうするのでしょうか。
その辺を徹底的に紐解いたブログ論ネットコミュニケーション論が読みたいなぁと、もっと「執着」を明らかにして殴り合ってほしいものだなぁと、そんなことを思います。

 

しまらない感じになったので、この言葉で締めましょう。
最後まで読んで頂きありがとうございました、そんじゃーね。