この先、しばらく道なりです
ずっと忘れていた。
言葉を書き綴るために情報など必要ないことに。
ただひたすら、思ったことを思ったままに書けばよいのだと。
なによりも書くこと。言葉を表に出すことが大事なのだと。
文章の上手さなど気にすることはない。
だって下手なのだから。
プロとして文章を書いていたなんて過去は関係なく、
いつだって僕は文章を書くことに対する悩みを抱え、
心が求めるその何分の一も言葉として表すことができずに苦しみ、
世の表現者達が自分よりも自分の感じることを形として出すことに絶望し、
マクドナルドの隣の席で雑談をする女子高生達の会話に
尊敬するあらゆる作家達の言葉以上に心そのままの言葉を見つけて歯噛み、
文章を書くことでしか何かを表現できず、
文章を書くことでしか満たすことができないことを知っているのに、
ずっと文章から逃げてきたのだから。
「世の中の面白いことを文章を通じて他の人に伝えたい」
そう思って文章を書いていたことがある。
それは決して嘘ではなかった。決して嘘ではなかった。
でもそれは一面でしかない。
僕は書きたかった。
何もない日曜日の午後に感じる圧倒的で抗えない空虚感を。
秋の夜に家に帰るときに感じる、どうしようもない悲しさを。
冬の夕方に建物から出た時に吸う煙草の煙の重さを。
五反田の弓道具店で見た貴女の輝くような笑顔を。
なんの特徴もないサービスエリアに足を踏み入れたときの心躍る気持ちを。
稲妻に打たれたかのような誰かの言葉に触れたときの感動を。
たった一言、言葉に出せば通じる一言をどうしても言えない時の息苦しさを。
選択肢がただ一つもなく、それでもありえない未来を思うときの無力さを。
僕は書きたかった。僕はそれらを書きたかった。
恥ずかしいほどに感傷的で受け身な僕は、もう一面でそれらを書きたかった。
絵を描けない、写真を撮ることもできない、映像など全く知らない僕は、
それでも自分が出会ってきた何かを残したくて仕方ない僕は、
言葉という形で書き残したかった。
小説という形ではないかもしれない、
詩という形でもないかもしれない、
人に見せる物ではないかもしれない、
だれかに同意される物ではないのかもしれない、
そもそも誰かが読んで伝わる物ですらないのかもしれない。
それでも僕は言葉という形で書きたかった。
でも僕は書かなかった。
それはいつからだっただろう。
30年という人生の中で、僕が僕の言葉を書かなくなったのはいつからだっただろう。
僕はそれを知っている。知っていながらそれを頑なに認めない。
あらゆる嘘と言い訳で、認めなければならないことを認めない。
時代のせいにして、環境のせいにして、他人のせいにして、
僕は書くことから逃げていた。
僕は他人からほめられる言葉を、他人から同意される言葉を書いた。
売り物になる言葉を書いた。
またある時は尊敬する誰かの言葉を模した文章を書いた。
形にするための言葉を書いた。
言葉にするために全部がそろっていることから目をそらして、
一瞬しか残しておけない気持ちを全部そこに置き残して、
僕は資料と情報が必要な言葉を書いてきた。
言葉なんて本当に簡単なものだ。
いつもそこにある。キーボードがあれば、ペンがあればそれは形にできる。
技術なんて必要ない。語彙がたりなくったって心配することはない。
僕たちは感動を形にするのに必要な言葉を十分に持ってる。
どんな生き方をしていても、それを偽らなければ鮮やかに感動を形にすることができる。
僕はずっと忘れていた。
書くことを忘れていた。感じることを忘れていた。
感じて、それをただ言葉にすればいいと言うことを忘れていた。
自分を一つところに縛る必要なんてないんだということを忘れていた。
言葉はいつでも傍にあって、いつだって準備万端で、
僕はただそれを書けばいいんだと言うことを忘れていた。
そこに伝えるべき人なんて必要がないことを忘れていた。
自分が書けばいい。書いて残せばいい。
時間はどんどん流れていく。取り返しのつかないことはどんどん増えていく。
過ぎていってしまった時間は途方もなく多く、
残されている時間はさらに遙かに多い。
でも、いつだって準備万端だ。いつだって書くことができる。
書かなくったっていい。誰もそれを気にしないし、僕も気にしないかもしれない。
僕は小説家ではなく詩人ではなく、作詞家でもなく今はライターでもない。
僕が文章を書くことを知っている人は多いが、
僕の文章を求めている人がいるわけでもない。
ただ僕は言葉を書きたい。
さて。